子どもたちに平和を

- 子どもたちの瞳の輝きのため NO WAR の日々をつむぐ -

美しい涙

 

 病室を訪れるたとき友人が明るく陽がさす窓のほうを指さしてなにかを教えてくれた。その方向をみると桜が病に痛む人の心を抱擁するように咲いていた。

一緒に見舞った年下の青年と駅前の店で話す。

心の窓を開けて語るとはこういうことか。打ち解けて今打ち込んでいることについて話し合った。

 ふと小中学校の給食無償化の話題になった。

「これってそんなにおかねのかかることじゃないんですよね。一人のお子さんについて1か月4000円か5000円の話ですから」

「僕が出た父母の出席する集いで自治体行政の関係者がーー」

と言いかけた途端にその青年の目から涙がにじみだしていた。

「ごめんなさい。これ話すと冷静になれなくてーー」

自治体関係者のいうことにはーー私どもの相応の努力によりまして、すべてのご家庭から給食費を収めていただくことができましてと言ったんですよーー」

というあたりで嗚咽ということばが一番ぴったりするように青年は言葉を詰まらせてしまった。

「それを聞いている人の中で何とか自分の家の子どもたちに恥をかかせたくないが故に無理に無理を重ねてお金を払った親がいるかと思うとーー。聞き続けていることに堪えられなかったんです。」

他者の受ける屈辱にこれだけ心底から共感をよせる一つも二つも下の世代の青年がいることに驚かされた。

 同じ日の夕方。

死刑囚として40年以上身柄を拘束されてきた袴田巌さんの東京高裁再審開始決定に対して、特別抗告かと報道されていた東京高検が抗告断念というラジオのニュースが流れた。袴田さんの姉上が「これからが正念場です。」と弾むようなよくとおる声で語った。「よかったですねえ」とラジオに語り掛けてしまいたくなるように気持ちが動いた。

そのあとに続いた袴田さんの弁護団の一人の声の響きは若かった。これから再審無罪判決に向けての道筋を語ろうとするものであった。

ところが音が歪んでしまって言葉がわからない。何かが下からこみ上げてくるのだろう。顔はわからない。しかしきっと慟哭しているのだろう。

 二人の青年の涙を一日のうちに体験するとはなんという記憶に刻みたい日なのだろう。

 病床に伏す友人に語りたい経験だった。

顔は見えない。しかし慟哭しているのだろう。