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コロナの漢方治療に光を!
コロナが5類になった。気分がゆるんだようにマスクをはずしたり、喫茶店や飲食店で大声で話す光景を見かける。しかし身近でも感染はでている。
最近フエイスブックで新聞社の社員ジャーナリストが感染を告白して数日は入管法改正反対運動の現場に出られないことを打ち明けていた。
コロナ問題ほど一人の成人、一人の子どもの生き方,自身の進退への気配り、プライバシー防衛姿勢、政治への距離感行ってみれば人生観の違いを浮き立たせた経験はないと思う。
私は人生の一つ一つの瞬間を人は意識するにせよ、無意識にせよ利益衡量しながら生きてゆくのだと思う。
その意味で恐怖感を過大にあおり、ワクチンを受ける方向に誘導する論調には距離を置く。
人々にとって不足しているのは治療薬、予防薬についての情報ではないか。
一つの有力な情報として医師の資格をもち中医でもある滝原章宏氏の「コロナの漢方治療」というエッセイに接したので自分が代表を務めるネットメデイアに執筆していただいた。読者のみなさまにはhttp://www.news-pj.net/news/148718で読んでいただける。
補中益気湯や麻杏甘石湯という漢方薬の名前が登場するがこの文章を読むとなぜこの予防治療体験がテレビや新聞で取り上げられないのか不思議に思う。
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地方選挙が激戦の様子。
僕の住む地元国分寺も与党、野党、無所属がたくさんの候補をたてて乱戦模様l。
駅前での宣伝もにぎやかだ。
こういう情景をうるさいなあと受け取る風潮はいつ頃なのか。国政選挙に比べて投票率は芳しくない。
尊敬する憲法研究者奥平康弘先生(故人)は選挙期間、それ以前の公職選挙法の自由の規制をめぐり、ずいぶんたくさんの意見書や論文を書かれ、この時こそ人々の政治的関心が高まり自由が確保されなければならないと言っておられた。
では何を考えて国政ではないこの地方選挙に臨むのか。
何人か知り合いを訪ねたり電話をしたりして僕からというより相手の方の反応がいつもと違うことが心に刻まれた。
通りで行き交うときに冗談や冷やかしが多かった知り合いが、上がってくださいと勧めてくださった。
「梓澤さん。あなたがいうことはわかった。しかし野党にも言いたいことがある。日本にもミサイルが飛んでくるかもしれない。ウクライナのようにされるかもしれない。そういうご時勢じゃないか。それなのに野党も市民運動も何をいっているのか。どう行動しているのか。見えない。聞こえない」
「いやもっと言いたいことがある。梓澤さん。あなたはどうしているのか。あなたも今までと同じようにしていませんか。まず旗をふって今までと違う状況になっているのだから、いままでとは大いに異なる何かアクションをやらなければだめでしょう。」と詰められた。
これには参った。中学時代からの知人にこの体験を話した。
この先どうするかは続編で書きます。
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選挙に行かない人と対話した
生まれてこの方、およそ投票に行ったことがない、という人と話した。
「和幸さん。政治活動をやっている人の中にこれは本物だな。ピュアな人だなという方がおられるのを聞いたことがある。もう亡くなられたけれど、ご自分の政治的信念や所属している政党への信頼の基礎に友情や人と人のつながりを大切にしていた。そういう人を俺は尊敬する。でも。その人が選挙に出るとして、ご家族から支援してくれ、一票を投じてくれと頼まれても俺は行かない。」「足が動かない」
俺には俺の世界がある。その日々を一生懸命に生きている。それは一個の体系をなしていて、投票に行った途端にその世界が一挙に瓦解してしまう。
こんな話を夜遅くまで座り込んでやった。
その翌日有楽町のガード下にあるカレーうどん屋さんがある。ここのうどんとご飯の盛り合わせが実にうまい。5人座れるカウンターと外に一卓だけのテーブル。650円というリーズナブルな価格。後ろのレンガ造りの壁には石原裕次郎、とか小林あきらとかいわゆる昭和の時代の映画のポスターが何枚も折り重なるように貼ってある。
カウンターの横に無造作に折りたたまれた日経新聞があった。
おやじさんに一声かけて読んだ。
春秋というコラム欄がある。
高橋和己という亡くなって久しい作家のことを取り上げていた。
驚く一節があった。
少し長い引用を許されたい。
作家の代表作「堕落」の主人公は独白する。「政治的に思弁するということは、それ自体が悪なのだ。」「政治の本質は陰謀だ。対立する敵の行動に備えるには、理想を説くのではなく、自らも邪悪な思考を身につける必要がある。歴史を動かしてきたのは悪人なのだ。」「こうした人間にどんなヒューマニズムがありえようか」
前夜に話した芸術家が言いたかったことが高橋和己の肉体を通り抜けた肉声で語られている。
選挙に行かない人の人口はおよそ4千万人、それは与党に投票する人の投票数の倍になる。この人たちの一角が崩れるだけで政治は変わるということが言われるし、僕もそう発言してきた。
しかし、事は簡単ではないのだろうか。
僕とゆっくりと話し合った芸術家にも言いたい。「堕落」の主人公にも。
目の前でこどもたちの命が危うくされたらどうします。あなたなら駆け寄るでしょう?
今はその時ではありませんか。南西諸島最南端の与那国島ではここには住んでいられないとよその島にあるいは本土にも避難を始めていると沖縄に居住する研究者から聞きました。それは日本列島どこにいても同じ危機。
もう一度あの芸術家と話してみたい。
頑固な職人気質のおやじさんにカウンターの左に
美しい涙
病室を訪れるたとき友人が明るく陽がさす窓のほうを指さしてなにかを教えてくれた。その方向をみると桜が病に痛む人の心を抱擁するように咲いていた。
一緒に見舞った年下の青年と駅前の店で話す。
心の窓を開けて語るとはこういうことか。打ち解けて今打ち込んでいることについて話し合った。
ふと小中学校の給食無償化の話題になった。
「これってそんなにおかねのかかることじゃないんですよね。一人のお子さんについて1か月4000円か5000円の話ですから」
「僕が出た父母の出席する集いで自治体行政の関係者がーー」
と言いかけた途端にその青年の目から涙がにじみだしていた。
「ごめんなさい。これ話すと冷静になれなくてーー」
「自治体関係者のいうことにはーー私どもの相応の努力によりまして、すべてのご家庭から給食費を収めていただくことができましてと言ったんですよーー」
というあたりで嗚咽ということばが一番ぴったりするように青年は言葉を詰まらせてしまった。
「それを聞いている人の中で何とか自分の家の子どもたちに恥をかかせたくないが故に無理に無理を重ねてお金を払った親がいるかと思うとーー。聞き続けていることに堪えられなかったんです。」
他者の受ける屈辱にこれだけ心底から共感をよせる一つも二つも下の世代の青年がいることに驚かされた。
同じ日の夕方。
死刑囚として40年以上身柄を拘束されてきた袴田巌さんの東京高裁再審開始決定に対して、特別抗告かと報道されていた東京高検が抗告断念というラジオのニュースが流れた。袴田さんの姉上が「これからが正念場です。」と弾むようなよくとおる声で語った。「よかったですねえ」とラジオに語り掛けてしまいたくなるように気持ちが動いた。
そのあとに続いた袴田さんの弁護団の一人の声の響きは若かった。これから再審無罪判決に向けての道筋を語ろうとするものであった。
ところが音が歪んでしまって言葉がわからない。何かが下からこみ上げてくるのだろう。顔はわからない。しかしきっと慟哭しているのだろう。
二人の青年の涙を一日のうちに体験するとはなんという記憶に刻みたい日なのだろう。
病床に伏す友人に語りたい経験だった。
顔は見えない。しかし慟哭しているのだろう。
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3月19日 国分寺市民連合は国分寺駅南口駅頭で定例の駅頭宣伝を行いました。私もマイクを向けられたので5分お話ししました。
エマニュエルトッドの第三次世界大戦はもう始まっている(文春新書)東郷和彦の「プーチンVSバイデン」(K&Kプレス)の書籍現物をパネルに貼り付けて「こんな本があります」というところから始めました。
ロシアの蛮行は厳しく非難されなければなりません。
しかしウクライナ戦争の隠された仕組みはそれだけでは分からない。
NATOの東方への拡大、ロシアとNATO加盟国との国境が触接接触することになっては困るというロシア側の危機感を一顧だにせずウクライナのNATO加盟を後押ししてきたアメリカのバイデンのウクライナ政策がこれでよかったのか、という検証が必要だというのが二つの書籍の共通する主張です。
アメリカはウクライナへの武器支援をどんどんやる。西欧諸国もそれを止めない。
この動きの背景にあるアメリカ軍産複合体(ミリタリーコンプレックス)とアメリカ大統領がトップにいる政権の防衛政策の関係を見るべきです。軍需産業の利益のためにアメリカの膨大な予算が使われている。
プーチンを追い込み軍事侵攻作戦をとらせ、実際に戦争被害を起こし、そして国の予算を使って武器買い付けをやりゼレンスキー政権に武器供与をする。日本では台湾有事危機をあおって岸田軍拡をやらせる。
そこで注目されるのがバイデンに任命されたアメリカ国防長官のロイドオーステインだ。初めてのアフリカ系アメリカ人ということでも注目された。
かれはアメリカ陸軍で最高の位 (中将までは確認できるが大将になったかは今調査中)についた。軍を退役後2016年から2020年までロッキード、グラマンに次ぐレイセオンという名だたる軍需産業の取締役になった。その後オーステインはアメリカ国防長官になった。
レイセオンはトマホークを製造し、日本政府はこのミサイル1基あたり2億円で400基買い付けるとネットで報道されている。
トマホークの射程距離は1600キロだから中国、北朝鮮の領域深くまで届く。敵基地攻撃能力の典型的な武器だ。
このようにみるとウクライナ戦争の日本の未来の関係がよく見える。
熊本の自衛隊基地を地下化するとの熊本日日新聞の報道もあった。
石垣島も。
アジア各国はアメリカと中国の覇権争いに巻き込まれるのはごめんだという姿勢を政治のリーダーたちが表明している。
トルコは一度停戦の仲介をやった。
日本こそ、憲法9条を根拠として専守防衛という歴代保守が掲げてきた国際的信用を失っては駄目だ。アジア各国と共同してウクライナ戦争をとりあえずやめろの声を上げるべきだ。岸田さん。宏池会はどうした。
広島出身はどうした。
政府がやらないなら民間外交でもバンバンやっていいのでないか。
若き志たちよ。立て。
国教
加賀乙彦さんを偲ぶ
梓澤 和幸
2023年は特別な年である。戦争という言葉が現実の響きをもってこの国の空を覆っている。1月12日加賀乙彦さんは他界された。
身近に触れた故人の像を紹介しつつ加賀さんを追悼したい。
「湿原」、「宣告」にふれたことをきっかけに私はこの作家に強く憧れた。「虚構はノンフィクションより深く真実をえぐりだす。」このことばに引き付けられ、小説を書きたいと思った。40歳のころだった。中学2年の同級生だった高橋千剣破氏に頼み込んで同氏と加賀さんの推薦で日本ペンクラブに入会させてもらった。
胸に刻まれた体験を記しておきたい。
2016年3月宮崎県延岡市で日本ペンクラブ平和の日の集いがあった。1300名もの大きな会場で開かれ、加賀さんは沢地久枝さんとの対談のため出演された。集会の様子を伝えるペンクラブの会報にのった80代後半になる加賀さんの肖像のなんと若々しいことか。広い額、微笑した瞳の大きい目、立ち姿からたちのぼる力。
宮崎空港から延岡市の宿泊先まで1時間半の道のりを出演者とスタッフ総勢30名ほどがバスで移動した。
この道のりで加賀さんと隣席になった。
いろいろと質問させていただいた。
「フィクションとしての小説を書こうとすると、裁判所に出す準備書面とは違って思わず肩に力が入り、物語が出てこない。どうしたものでしょうね。」
二つの言葉が記憶に残る。
「人と自然をよく観察して、人物メモを重ねてゆく。大学ノートになん十冊ものそれがたまり、3000人分に達したら、もう物語が出てくる」「トルストイの「戦争と平和」の中の時代の中で人物をとらえる描写は勉強になる。小説冒頭のアンナシェーレル邸の夜会の場面には小説の主な登場人物がほとんど出てくる。僕は何十回も読みましたけれど」
「ふるさとはどこですか。うん。群馬県の桐生ですか。ふるさとを大切にして訪ねなさい。
季節ごとに赴くこと。ふるさとの人々、山、川、街、木々、花にふれるのです。」
人と自然に関心をもつこと、そこに食い入ってゆくこと。
加賀さんは自伝(集英社 2013年)の中で作品をあげて次のように語った。「死刑囚 正田氏をモデルにした「宣告」について。
「私と正田昭との付き合いは長年に及び、最後の3年間には濃密な付き合いをしています。
にもかかわらず、結局彼のことをわかっていなかった。そうであるなら人間を理解するということを主題にして小説を書いてみよう。そうして書き始めたのが「宣告」でした。(自伝216頁)
「彼を正確に再現しようとしたら、科学的分析の簡単であいまいな操作でなく、複雑で矛盾に満ちた文学的表現によるしか方法がない。ぼくは死刑囚の表現としては文学の方法のほうが科学より優れていると気づいた。」「雲の都」第4巻135頁 精神科医師で上智大学で犯罪心理学の教員の経歴もある加賀さんの言葉として読むと重く響く。
そして「湿原」について。
「ある人間をリアリズムで書く場合には、単に細部を描写するだけでなく、人間という存在そのものの秘密を明らかにしなければならないんではないか、と。そうすると必然的に神の問題、クロワール、すなわち「信ずる」ことの問題へと行き着き、いまだにこの問題が解決されていないことに気が付いたんです。(自伝241頁)
大学時代からふるさとには通っていたが、延岡への車中でアドバイスを受けた後は一段と桐生への旅には力が入った。毎年8月第1週には民謡八木節まつりが開かれる。人口10万の街に人口と同数の観光客がひしめく。開催の前になると市内に無数にある八木節を鍛えあう道場やサークルが祭りに備えて練習する。小学生時代の子どものころふるさとは世界に聞こえた絹織物の産地で通学で辻を曲がるごとに織物工場の織機のおとが聞こえてきた。あの時を思い起こさせるようにあちこちでお囃子の音が届く。
梅雨明けの頃だった。ふるさとのシンボルとされる山に旧友と登っていたときのこと。市内の街路と緑の樹々を縫って蛇行する川は快晴の陽光を受けて遠景に輝く。
横笛とかね、のメロデイーとリズムが山の中腹から響いてきた。予期せぬ音だった。むせかえる炎暑のさなか山車(だし)の上から聞こえる、熱で圧倒するような祭りのさ中の音頭取り(ヴォーカル)の節まわしとは趣を異にし、それは涼風にのって届く美しい響きだった。何十年も前のこの山に向かった小学生時代の遠足のことや他界した父母のことが一瞬にして思い起こされた。
2006年11月19日の戦争と文学第2回シンポジウム(東京堂ホール)のことも忘れられない。
浅田次郎会長(当時)落合恵子さん、加賀さんの3人が基調講演をされた。
冒頭、浅田会長は、日本に戦争文学というジャンルがあるのは、なぜかにふれた。19世紀ヨーロッパの自然主義文学運動が日本に移入され一人称の私小説となった。その後のプロレタリア文学の興隆の流れがあったが、戦争の時代に入ってゆくと「軍隊や戦場での思いはみな同じという状況が文学の新しいジャンル戦争文学を生み出したのではないか。」と話された。「戦争文学は価値あるものと思っている。時代の苦労を共有しているからでこれからも書き継いでゆきたい」と抱負を語った。
落合さんは「人の命より大事なものはない。そのあとに続いているのが、文学と表現ということだと思う。」と述べ、「書店をやっている自分、デモや抗議行動をする自分がいるが、これも表現の一つ。いつまでも私たちは受け身でいいのか、読者でいいのか」と問いかけた。
加賀さんはこれを受けて、「戦争と文学」を考える時に一番基礎になる法律が二つある。
徴兵令と姦通罪だと指摘された。1872年の徴兵令、1882年の軍人勅諭、1890年の大日本帝国憲法、1890年の教育勅語によって国民(国民)はみな兵隊になれとされた。有夫の女性の姦通は懲役2年と定められた。こうしたことを文学はきちんとわきまえ時代の光景、時代の悲惨さを書くべきであると力説した。
司会者の私は「加賀さんはなぜ戦争を描いたのですか。」と聞いた。
「帰らざる夏」「錨のない船」「永遠の都」を念頭においての問いだった。
「それは私が戦争の時代を生きたからです」との答えだった。
このシンポジウムにおける加賀さんの二つの発言の意図を企画にあたる立場だった私は深く受け止められなかった。集いの直後加賀さんは厳しい表情と言葉で私の構成と司会を批判した。 長いお付き合いの中でユーモアと激励で優しく包んでくれた「恩師」の初めての「叱責」だった。なぜあれほど怒ったのか。
この文章を書くにあたって「雲の都」5巻と自伝を再読してその謎が解けたような気がする。
「自分はなんと言う奇妙な戦争と平和と、自然の大災害と原子爆弾と原発災害の時間を生きてきたことかと不思議に思う。その謎は解けないが、それらの存在が人々を苦しめ滅亡の予告をしている事実からは逃げ出せない。そこに国の歴史と自分の一生を描いていくリアリズム小説の要請を覚えるのだ。自然災害であろうが、人災であろうが、それが確固として存在していたという証言が私の文学であると思っている。(自伝275頁)
私の兄は1943年、戦争のさなか、空腹のせいか、防火用水の水を飲んでしまい、疫痢にかかった。女だけの家庭に近所の医師は対応してくれなかった。遠くから自転車で駆けつけてくれた小児科医師の治療は間に合わなかった。父は徴兵で佐倉の連隊の兵舎にいた。その留守宅で三歳の幼い命は大人が作り出した戦争に奪われた。死の床で「和ちゃんは?」とはいはいする私の名前を呼んだという。中隊長の部屋で電報を読み上げられた父は真後ろに卒倒した。
2022年4月2日のTBS「報道特集」はウクライナ戦争を取り上げた。9歳の少年が40代の母親とともにロシアの戦車に追われ、生きながら焼かれて死んだ。映像は目撃した女性の証言と母と子の墓となる質素な十字架の映像を伝えた。
幼い命たちは私に叫ぶ。
「僕たちの痛みと悲しみを忘れないで。戦争はなぜ起こるの。ねえなぜ。教えて。」
いま私たちの眼前に繰り広げられる日々の政治はこの問いに行動をもって答えを紡ぎだすことを求めているのではないか。
加賀さんの死を悼み、その大きな営みを承継しようとするなら、子どもたちの未来を守るために行動で抗わなければならない。抵抗が作り出す人生と歴史を文字に刻まなければならない。
加賀先生。もう一度でいい。胸襟を開いてお話ししたかった。
初出 文芸誌 コールサック 2023年3月号
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筆者プロフイール 前日本ペンクラブ平和委員会委員長 弁護士 一橋大学法学部卒
著書 「報道被害」 (岩波新書)「改憲 どう考える緊急事態条項 9条自衛隊明記」(同時代社)ほか
「憲法について今私が考えること」 (日本ペンクラブ編)(角川書店)の編集責任者を務めた。この書には加賀さんのエッセイも掲載された。
追記 シンポジウムの発言内容は清原康正会報委員長(当時)のペンクラブ会報の記述を引用した。記して感謝したい。
子どもたちに平和を ーPeace For Children
2023年3月16日 梓澤和幸
2022年4月2日のTBS 報道特集の映像は胸に焼き付いて離れない。
40代の母親と9歳の少年がロシアの戦車に追われ、生きながら焼かれて命を奪われた。
母親の友人たちが二人のお墓を作った。その画像である。樹木でできた質素な十字架に二人の名前が書かれた。破壊された周辺の住宅や街路を背景にして目撃者は語っていた。
私の兄は戦争中、空腹からかコンクリートでできた防火用水槽の水を空腹からか吞んでしまい、疫痢にかかった。父は徴兵で佐倉の兵営にいた。近所の内科医は女だけの家庭にかけつけてくれなかった。つてを頼んでようやく遠くの小児科医が自転車で駆けつけてくれたが、間に合わなかった。3歳の兄ははいはいする私のことを気遣い、「和ちゃんは?」と呼んだという。「セイイチシス」中隊長室で読み上げられた電報でわが子の死を知った父は真後ろに卒倒した。
二人の男の子は私に問うている。
「僕たちの痛みと悲しみを忘れないで。戦争はなぜ起こるの。ねえ なぜ」
この答は論理ではなく。行動によって紡ぎださなければならない。
公園を歩くと、梅が枝が色とりどりに新しい季節を迎えようとしていた。ときはうつった。吹きだすように、誇るように咲く花のときがすぐそこにある。冬は明ける。
フランス人は「天気のように政治を語る」という。本当に。
そのようにこの身体にしみ込んだ言葉でこの国の現在と未来を語りたい。歩みながら。