子どもたちに平和を

- 子どもたちの瞳の輝きのため NO WAR の日々をつむぐ -

加賀乙彦さんを偲ぶ

                                                                                                                   梓澤 和幸

 2023年は特別な年である。戦争という言葉が現実の響きをもってこの国の空を覆っている。1月12日加賀乙彦さんは他界された。

身近に触れた故人の像を紹介しつつ加賀さんを追悼したい。

 

 「湿原」、「宣告」にふれたことをきっかけに私はこの作家に強く憧れた。「虚構はノンフィクションより深く真実をえぐりだす。」このことばに引き付けられ、小説を書きたいと思った。40歳のころだった。中学2年の同級生だった高橋千剣破氏に頼み込んで同氏と加賀さんの推薦で日本ペンクラブに入会させてもらった。

胸に刻まれた体験を記しておきたい。

 2016年3月宮崎県延岡市日本ペンクラブ平和の日の集いがあった。1300名もの大きな会場で開かれ、加賀さんは沢地久枝さんとの対談のため出演された。集会の様子を伝えるペンクラブの会報にのった80代後半になる加賀さんの肖像のなんと若々しいことか。広い額、微笑した瞳の大きい目、立ち姿からたちのぼる力。

宮崎空港から延岡市の宿泊先まで1時間半の道のりを出演者とスタッフ総勢30名ほどがバスで移動した。

 この道のりで加賀さんと隣席になった。

 いろいろと質問させていただいた。

「フィクションとしての小説を書こうとすると、裁判所に出す準備書面とは違って思わず肩に力が入り、物語が出てこない。どうしたものでしょうね。」

 二つの言葉が記憶に残る。

「人と自然をよく観察して、人物メモを重ねてゆく。大学ノートになん十冊ものそれがたまり、3000人分に達したら、もう物語が出てくる」「トルストイの「戦争と平和」の中の時代の中で人物をとらえる描写は勉強になる。小説冒頭のアンナシェーレル邸の夜会の場面には小説の主な登場人物がほとんど出てくる。僕は何十回も読みましたけれど」

 

「ふるさとはどこですか。うん。群馬県の桐生ですか。ふるさとを大切にして訪ねなさい。

季節ごとに赴くこと。ふるさとの人々、山、川、街、木々、花にふれるのです。」

 人と自然に関心をもつこと、そこに食い入ってゆくこと。

加賀さんは自伝(集英社 2013年)の中で作品をあげて次のように語った。「死刑囚 正田氏をモデルにした「宣告」について。

 「私と正田昭との付き合いは長年に及び、最後の3年間には濃密な付き合いをしています。

にもかかわらず、結局彼のことをわかっていなかった。そうであるなら人間を理解するということを主題にして小説を書いてみよう。そうして書き始めたのが「宣告」でした。(自伝216頁)

 「彼を正確に再現しようとしたら、科学的分析の簡単であいまいな操作でなく、複雑で矛盾に満ちた文学的表現によるしか方法がない。ぼくは死刑囚の表現としては文学の方法のほうが科学より優れていると気づいた。」「雲の都」第4巻135頁 精神科医師で上智大学犯罪心理学の教員の経歴もある加賀さんの言葉として読むと重く響く。

そして「湿原」について。

 「ある人間をリアリズムで書く場合には、単に細部を描写するだけでなく、人間という存在そのものの秘密を明らかにしなければならないんではないか、と。そうすると必然的に神の問題、クロワール、すなわち「信ずる」ことの問題へと行き着き、いまだにこの問題が解決されていないことに気が付いたんです。(自伝241頁)

 

 

 大学時代からふるさとには通っていたが、延岡への車中でアドバイスを受けた後は一段と桐生への旅には力が入った。毎年8月第1週には民謡八木節まつりが開かれる。人口10万の街に人口と同数の観光客がひしめく。開催の前になると市内に無数にある八木節を鍛えあう道場やサークルが祭りに備えて練習する。小学生時代の子どものころふるさとは世界に聞こえた絹織物の産地で通学で辻を曲がるごとに織物工場の織機のおとが聞こえてきた。あの時を思い起こさせるようにあちこちでお囃子の音が届く。

 梅雨明けの頃だった。ふるさとのシンボルとされる山に旧友と登っていたときのこと。市内の街路と緑の樹々を縫って蛇行する川は快晴の陽光を受けて遠景に輝く。

 横笛とかね、のメロデイーとリズムが山の中腹から響いてきた。予期せぬ音だった。むせかえる炎暑のさなか山車(だし)の上から聞こえる、熱で圧倒するような祭りのさ中の音頭取り(ヴォーカル)の節まわしとは趣を異にし、それは涼風にのって届く美しい響きだった。何十年も前のこの山に向かった小学生時代の遠足のことや他界した父母のことが一瞬にして思い起こされた。

 

 2006年11月19日の戦争と文学第2回シンポジウム(東京堂ホール)のことも忘れられない。

 浅田次郎会長(当時)落合恵子さん、加賀さんの3人が基調講演をされた。

 冒頭、浅田会長は、日本に戦争文学というジャンルがあるのは、なぜかにふれた。19世紀ヨーロッパの自然主義文学運動が日本に移入され一人称の私小説となった。その後のプロレタリア文学の興隆の流れがあったが、戦争の時代に入ってゆくと「軍隊や戦場での思いはみな同じという状況が文学の新しいジャンル戦争文学を生み出したのではないか。」と話された。「戦争文学は価値あるものと思っている。時代の苦労を共有しているからでこれからも書き継いでゆきたい」と抱負を語った。

 落合さんは「人の命より大事なものはない。そのあとに続いているのが、文学と表現ということだと思う。」と述べ、「書店をやっている自分、デモや抗議行動をする自分がいるが、これも表現の一つ。いつまでも私たちは受け身でいいのか、読者でいいのか」と問いかけた。

 加賀さんはこれを受けて、「戦争と文学」を考える時に一番基礎になる法律が二つある。

 徴兵令と姦通罪だと指摘された。1872年の徴兵令、1882年の軍人勅諭、1890年の大日本帝国憲法、1890年の教育勅語によって国民(国民)はみな兵隊になれとされた。有夫の女性の姦通は懲役2年と定められた。こうしたことを文学はきちんとわきまえ時代の光景、時代の悲惨さを書くべきであると力説した。

 

 司会者の私は「加賀さんはなぜ戦争を描いたのですか。」と聞いた。

「帰らざる夏」「錨のない船」「永遠の都」を念頭においての問いだった。

「それは私が戦争の時代を生きたからです」との答えだった。

このシンポジウムにおける加賀さんの二つの発言の意図を企画にあたる立場だった私は深く受け止められなかった。集いの直後加賀さんは厳しい表情と言葉で私の構成と司会を批判した。 長いお付き合いの中でユーモアと激励で優しく包んでくれた「恩師」の初めての「叱責」だった。なぜあれほど怒ったのか。

この文章を書くにあたって「雲の都」5巻と自伝を再読してその謎が解けたような気がする。

 「自分はなんと言う奇妙な戦争と平和と、自然の大災害と原子爆弾原発災害の時間を生きてきたことかと不思議に思う。その謎は解けないが、それらの存在が人々を苦しめ滅亡の予告をしている事実からは逃げ出せない。そこに国の歴史と自分の一生を描いていくリアリズム小説の要請を覚えるのだ。自然災害であろうが、人災であろうが、それが確固として存在していたという証言が私の文学であると思っている。(自伝275頁)

 

私の兄は1943年、戦争のさなか、空腹のせいか、防火用水の水を飲んでしまい、疫痢にかかった。女だけの家庭に近所の医師は対応してくれなかった。遠くから自転車で駆けつけてくれた小児科医師の治療は間に合わなかった。父は徴兵で佐倉の連隊の兵舎にいた。その留守宅で三歳の幼い命は大人が作り出した戦争に奪われた。死の床で「和ちゃんは?」とはいはいする私の名前を呼んだという。中隊長の部屋で電報を読み上げられた父は真後ろに卒倒した。

2022年4月2日のTBS「報道特集」はウクライナ戦争を取り上げた。9歳の少年が40代の母親とともにロシアの戦車に追われ、生きながら焼かれて死んだ。映像は目撃した女性の証言と母と子の墓となる質素な十字架の映像を伝えた。

 幼い命たちは私に叫ぶ。

「僕たちの痛みと悲しみを忘れないで。戦争はなぜ起こるの。ねえなぜ。教えて。」

いま私たちの眼前に繰り広げられる日々の政治はこの問いに行動をもって答えを紡ぎだすことを求めているのではないか。

 加賀さんの死を悼み、その大きな営みを承継しようとするなら、子どもたちの未来を守るために行動で抗わなければならない。抵抗が作り出す人生と歴史を文字に刻まなければならない。

 

加賀先生。もう一度でいい。胸襟を開いてお話ししたかった。

 初出 文芸誌 コールサック 2023年3月号

 

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筆者プロフイール 前日本ペンクラブ平和委員会委員長 弁護士 一橋大学法学部卒

著書 「報道被害」 (岩波新書)「改憲 どう考える緊急事態条項 9条自衛隊明記」(同時代社)ほか

憲法について今私が考えること」 (日本ペンクラブ編)(角川書店)の編集責任者を務めた。この書には加賀さんのエッセイも掲載された。

追記 シンポジウムの発言内容は清原康正会報委員長(当時)のペンクラブ会報の記述を引用した。記して感謝したい。